ギトンの秘密部屋だぞぉ

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昧爽の迷宮へ(2) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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東京大学 三四郎

 

 「まーあくん! なに見てんの?」

 後ろから太い声がかかった。振り向くと、上の遊歩道に、ここの医学部生のEが立っていた。浪人して入学しているので、だいぶ年上だ。隣りにいる女は薬学部生のD。薬屋の娘で、あとは入り婿を探すだけだ。この二人とは、隣りの独文研究室で知り合った。将来を約束されたご身分の彼らは、教養だか息抜きだか、独文の授業に来ている。ぼくは、忠実な従僕のように会釈して、眼を戻した。池を見ると、向こう岸にいた少年のような男は、いなくなっていた。

 Eが近づいてきて、うしろからいきなりぼくの肩を抱いた。振り向くと、手で顔を挟まれて、唇が重なってきた。エスカレーターに乗ったご身分は、何でもし放題なのだろう。一度、彼らと電車に乗り合わせたことがあったが、座席に座っているぼくのすぐ前で、額(ひたい)と額を付け合って、これ見よがしに睦み合っていた。ぼくがふつうの男だったら嫉妬でいたたまれないところだ。ふつうの男でなくてよかったが、彼らもぼくを男とは見なしていない。その結果が、この何度目かのキスだ。うれしくはないが、こんな浅いキスはさせておけばよいと思って、放(ほう)っていた。

 しかし、いま、ぼくはEに、池での秘め事を邪魔されたような気がして、少し腹が立っていたので、顔をそむけた。

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 Eは、ぼくの小さな抵抗などは気にもしないといったふうに、
 「真剣な顔して、何見てたの?」
 「池を眺めてただけですけど。」
 「凝視してたぞ。考えごとか?」
 「そうよ、だって、思いつめたような顔して、じいっと立ってるんだもん、心配しちゃったじゃない。」
 と、上からDが、笑い飛ばすように言う。

 彼らは、これから「オアゲ」のパーティーに行くのだと言う。「オー・アー・ゲー」は、日本語名:ドイツ文化協会。日独相互理解のための公益法人だ。今夜のパーティーには、NHKの語学講座に出ているドイツ人のMも来るという。Mは、同性愛好者で、かわいい若い男をひっかけるというもっぱらの噂だった。いっしょに来ないかと誘われたが、「ぼくはバイトがありますから。」と言って断った。
 「アルバイトって、居酒屋さんだったかな? 新宿だっけ?」
 どんなお店? どこにあるの? などと、次々に訊いてきそうな気配を感じたので、ぼくは、もう時間ですからと言って立ち去った。

 ぼくのアルバイト先に、一度行ってみたい、などということになっては困るので、辟易(へきえき)した。ゲイバーに勤めているのがばれたら、東洋学研究室にまで伝わったら、ぼくは教授のゼミに出られなくなってしまうだろう。

【注】オー・アー・ゲー:ドイツ東洋文化研究協会。日本を研究しドイツ語圏に紹介することを目的として、1873年、在日ドイツ人の集まりを母体として東京で設立された。ホームページ⇒:OAG – Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens (Tokyo) – 公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会

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 途中、携帯に、店のママからのメールが入っていた。〇〇さんのところでグラスの箱を受け取って、店に運んでグラスを洗っておいてほしいという。店は、ゲイバーばかりの雑居ビルの2階にある。箱をかかえながら、ドアがなくなって蝶番(ちょうつがい)だけになった入口を通って、階段を昇ってゆくと、もう常連のカップルがひと組、店の扉の前に来ていた。鍵を開けて彼らをカウンター席に入れ、ぼくは調理場に入ってグラスを洗いはじめた。水も何も出せないが、常連客だから気にしなくてよい。

 カップルはもちろん2人とも男。店の「ママ」も従業員全員も男だ。こういう場所のほうが、ぼくはほっとする。はっきり言って、ここには男も女もいない。医学部生のEのような小うるさい男はいないという意味だ。

【注】本篇はフィクションであり、しかも(おいおい明らかになりますが)幻想小説です。実在の大学とも個人とも無関係です。異常な接吻の場面など、こんなことはありえない!と不快になるかもしれませんが(実際、ありえないのですが)、小説の最後で、いっさいが明らかになります。しかし、それまでのあいだ、どうしても理解できない、納得できないという場合には、さしあたって作者の妄想だとお考え下さい。

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