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昧爽の迷宮へ(7) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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 池といっても、人工的な飛び石や灯篭のある庭園の池ではなく、森林に囲まれた窪みに水がたまった自然の湖沼のようだった。寺院の建物らしきものは見えなかった。それどころか、人の住んでいる気配さえなかった。あちこちに、枯れた倒木が朽ちていた。水はすきとおっていたが無色ではなく、青い色を帯びているように見えた。
 岸は砂礫でおおわれ、谷地菅
(やちすげ)がまばらに生えた不毛の湿原だった。樹木も、東京では見たことのない種類の針葉樹だった。

 ここは、どこだろうか? ぼくは意外の感に打たれて立ちつくした。水面の周囲には、岸に沿って、やはりかぼそい路が廻(めぐ)っているようだった。ぼくは、右のほうへ踏み跡をたどってみた。
 池は広く、岸は平坦で、歩くのに障碍になるものはなかった。森の中で襲ってきた底のない恐怖は、遠ざかっていた。寒くはない。むしろ、歩いてきたせいか、湿った空気が暑苦しく感じられた。

 ようやく平常心が戻ってくると、ぼくは、さきほど解読した暗行御史アメンオサの報告書を反芻していた。御史(オサ)は、朝鮮王朝下ではじめて起きたカトリック迫害「珍山教難」(1791年)の真相を、現地に潜行して探るようにとの王の密命を受けていた。それまで、李朝キリスト教を禁じてはいなかった。そもそも、キリシタンはほとんどいなかったと言われている。イエズス会宣教師による布教も、朝鮮には及んでいなかった。ポルトガルイスパニアの商人にとっても、宣教師たちにとっても、朝鮮は、ジパンとキタイ(中国)の陰に隠れて死角になっていたのだった。

【注】「珍山教難」:「珍山事件」「辛亥教難」ともいう。1791年、忠清道珍山郡〔現・忠清南道錦山郡珍山面〕の両班(ヤンバン)2名が、北京のカトリック司教の命令に従って、祖先崇拝を廃し、位牌を焼却した。朝廷は、これを体制に対する挑戦とみなして2名を処刑し、ソウルの支配層に対する取り締まりも厳しくして、キリスト教や「西学」の書物を焚書した。

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 ところが、この「珍山事件」を狼煙(のろし)の合図のようにして、天主教(カトリック)は朝鮮の国教である儒教に反する、しかも天主教徒は、外国軍隊の侵略を呼び込んで、王朝を倒そうと密かに企んでいる、との非難が巻き起こった。官僚支配階級のあいだに、キリスト教と「西学」(西洋文化)に対する恐怖が、燎原の火のように広がった。多くの宗教史家は、このパニックはむしろ、当時保守派の官僚グループが、自勢力の拡張を目的として引き起こした陰謀だったと見ている。

 時の朝鮮王・正祖は、儒教を改革し、西洋の文物を積極的に取り入れようとする「実学派」を重用して、開明的な施策を進めていた。進歩派の国王であった正祖の政治志向は、朝廷を中心とする集権化政策でもあった。これに対して、地方の実権を握る“草の根”勢力は、中央の保守派官僚と結んで、正祖の開明的政策を覆し、進歩志向の「実学」官僚を政権から追放しようとしていた。

 そこで、“さいしょの発火点”となった「珍山事件」も、保守派による陰謀ではなかったか、との憶測が成り立つ。

 正祖が、真相究明のために忠清道「珍山」に向かわせた暗行御史は、いまぼくが解読した新史料によれば、「実学派」の巨頭・丁茶山(チョン・タサン)であった。
 茶山が 1795年に暗行御史を拝命したことは、以前から知られていたが、その任務が「珍山事件」の調査だったということは、まだ誰からも指摘されていない。読み違えでなければ大発見だ! と、ぼくは胸の中で小躍りしていた。

 しかも、茶山の報告内容は、それ以上だった。「珍山」の天主教徒は、《壬辰倭乱》で「倭国」に連れて行かれた捕虜たちが、九州のキリシタン大名のもとでイエズス会司祭から洗礼を受け、徳川幕府キリシタン禁令にともなって、迫害を避けて帰郷し、潜んでいたのだという。もしそれが本当なら、朝鮮天主教の起源は、日本のキリシタンに繋がっていることになる。

 しかし、これはキリスト教の禁止を主張する李朝の保守派にとっては、願ってもない口実になったかもしれない。天主教徒は、西洋人の手先であるだけでなく、侵略者秀吉と「倭奴ウェノム」の手先でもあるのだから。それだからこそ、保守派は「珍山事件」のフレームアップを企てたのだし、茶山ら「実学派」は、それに、どれほど悩まされたか知れないだろう。

【注】「壬辰倭乱」:1592-93年。豊臣秀吉の引き起こした戦乱「文禄の役」の、中国・朝鮮側での呼び名。「慶長の役」(1597-98年)は、「丁酉再乱」。
【注】「丁茶山」:丁若鏞(チョン・ニャギョン 1762-1836)。「茶山(タサン)」は、号。朝鮮王朝時代の官僚・儒学者・思想家。「実学」を集大成し、西洋の科学・工学などを採り入れた。キリスト教の教理も研究したため、1801年「辛酉教難」に連座して流刑に処せられた。流刑地で、『経世遺表』『牧民心書』等を著わし、大胆な国政改革とユートピア社会の構想を描いた。

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 ぼくはもうだいぶ歩いて、池を半周くらいしたようだった。さっき森から出てきた場所は、もうどこだかわからなくなっていた。しかし、さっきの場所とちがって、この辺の池の底は黒っぽい泥で、丈の高いヨシ、ガマが密生していた。

【注】注に書いている史実と、本文の内容が、微妙に食い違っていることにお気づきかもしれません。しかし、これはわざとそうしているのです。その理由は、小説の最終章で明らかになります。

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