こんばんは。
『昧爽の迷宮へ』、いかがでしたか? 次作のネタは、書いてるうちに浮かぶもの――だそうですが、すぐに次を書くのは控えて、しばらく構想を温めたいと思います。なので、1か月ほどお休みをいただきます。他のブログの更新が遅れてしまっていますし。。。
最後の乱闘場面は、書いているうちに、予想もしなかったことが次々に起きて、何度も書き直しました。事前の下調べを綿密にやったつもりだったんですが、場面進行は計画から大幅に外れてしまい、キーボードの弾き出すままに進んだ次第でした。
はじめのうち伏線として置いていたキリシタン迫害の現場にはたどりつきませんでした。読んでいて、なにか途中でテーマが変ってしまったように感じられたかもしれません。
じつは、史実としては 1795年、つまり、まさに小説の舞台となった年の正月、北京から中国人神父・周文謨が、国禁を犯して(朝鮮王朝は鎖国中)ソウルに潜入してきました。情報をキャッチした朝廷はただちに捜索の手を向けましたが、周神父を発見することはできず、通訳と朝鮮人教徒らを捕らえて処刑したにとどまりました。その後、神父は6年間にわたってソウルに潜み、“地下教会” の布教を指導します。1800年には、朝鮮のカトリック教徒は1万名に達したと云われています。茶山が暗行御史を命ぜられたのは、まさにその “鬩ぎ合い” の渦中でのことだったのです。
ですから、小説は史実とは距離があるのですが、これはこれで一貫したスジになっているんじゃないかとも思っています。しばらく寝かしといてから、あらためて読み返してみないと、そのへん、出来がいいのか悪いのか、いまは判断がつきませんです。
もっとも、何もかも行きあたりばったりに書いた、というわけではありません。保守派――つまりワルモン??――のほうに日本刀の優秀な使い手がいるとか、味方の武器がズッコケてるとか、混乱を締めくくるべく最後にやって来た騎馬武官――つまり、デウス・エクス・マキナですなw――が、正義の味方どころか、どっちつかずで、けっきょくワルモノの味方をしてくれちゃうとか……―――そういうのは、じつは作者の意図どおりなんです。歴史の現実というのは、そうそう水戸黄門みたいに単純明快には進まない。捩じれ捩じれの連続で、もつれたように一進一退する。――というのが、作者の歴史観なのであります。
【参考文献】浅見雅一・安廷苑『韓国とキリスト教』中公新書,2012; 柳洪烈・著,金容権・訳『近代朝鮮における天主教弾圧と抵抗』彩流社,2013.
作者の見るところでは、いまの日本の人は、たぶんテレビの影響なんでしょう、世の中に対して、あんまり単純な見方をしすぎるように思います。“右”の人も、“左”の人も、スパッと単純な筋書きを描きすぎています。
たとえば、警察というのは、社会秩序の維持が任務ですから、世の中が二つに割れて争っている時には、どちらの味方をするわけにもいかなくて、頭を抱えてしまう。いや、ほんとに頭を抱えてしまったら威信がなくなりますから、「中立」を標榜して権威を維持しようとします。そのじつ真ん中を見きわめるのは難しいですから、結果的にはどっちかの肩を持ってしまいます。
最近の韓国のニュースを見ても、そういうことがよく分かります。もちろん、日本にも同じことがあるはずですが、日本は近すぎてよく見えないので、ここでは韓国の例を出しましょう。
元慰安婦を支援する民間団体『正義連』(『挺身隊問題対策協議会』の後身)が、ソウルの中心部にある「少女像」の前で、「水曜集会」というのを、この 30年間毎週やってきたのですが、最近、「保守系」団体――日本の「在特会」レベル。「極右」とも――が、先に集会申請を出して「少女像」前を占拠し、大声で『正義連』を攻撃。『正義連』は、少し離れた場所に追いやられています。『国家人権委員会』が、警察は集会妨害を目的とする申請を許可するな、許可するなら条件を付けろと勧告したんですが、警察は、「慎重に検討する」と言ったまま長考状態です。
なにしろ、韓国は今、大統領選挙戦の真っ最中。しかも、世論調査結果は、ほとんど1週間ごとに2人の主要候補(李在明[進歩与党] vs 尹錫悦[保守野党])のあいだを行ったり来たりしています(28日時点ではピッタリ同率!)。どっちが次の大統領になるやら、誰にも判らない状態。これでは、警察はどっちの味方もできないのです。うっかりどっちかの肩を持てば、大統領が決まったとたんに、人事刷新の嵐が吹き荒れるかもしれませんから。。。 幹部の保身のためでなくとも、とにかく秩序を維持する側というのは難しいのです。正義の味方なんて言ってられない‥‥ぶっちゃけて言えば、そういう面があります。
それはいまに始まったことではなくて、たぶん 200年前も同じだったと思うのです。ぼくには、作中の騎馬武官の念慮がとてもよくわかるし、そのゆえに2人の主人公(茶山もいれれば3人)にとって苛酷な結果になるのも、よくわかるのです。“どうにもならない” 現実の、“どうにもならなさ” を描くのが小説の使命ではないかと、……気取って言えば、そういうことになります。
それじゃあおまえは、批判的リアリズムも社会派も否定するのかと言われそうですが、それは次元の違う問題です。“解決” が示されるとか示されないとか、ハッピー・エンドになるかどうか、といったことは重要ではないと思っています。ハッキリ言って、どちらでも結構。重要なのは結論ではなく、そこに至る過程です。たとえば、小林多喜二は最高の文学です。あれほど凝縮された “どうにもならなさ” を描出した作家は、日本にはほかにいないからです。たとえ本人は、バネをより大きく飛ばすために、より大きな力で押さえ込んでいるのだとしても。
それにしてもぼくの小説は、“騒動” の描き方に異和感を持つ向きもあるかもしれませんが(クライマックスの 13回目だけアクセスが少ないので判ります)、韓国社会特有の・あのざわざわしたパワーは描けたと思っています。日本で言えば「超・大阪」ってとこでしょうか?w
次作は、どんな方面を書くことになるでしょう? いまの時点ではまったく白紙です。ぼくの関心は、今回は十分に書けなかったキリスト教+「西学」の弾圧に、本格的にメスを入れてみたいというのもあります。しかし、それには相当の下調べが必要です。今回ちょっと調べたところでは、重要な文献はみな韓国語で、翻訳されてはいないようです。漢字の少ないハングル文を読むには、時間がかかります。
「ぼく」の "同性愛幻想" をもっと掘りこんでみる、というのも考えています。こちらは下調べの必要はないけれども、作者としては自己解体にもなりかねないので、精神的なキツさはずっと大きいのです。
ともかく、1か月後‥‥あるいはもっと先?‥‥にまたお目にかかりましょう。至らない拙文をご高読いただき、ありがとうございました。