ギトンの秘密部屋だぞぉ

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昧爽の迷宮へ(11) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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原城(華城) 華虹門(世界遺産): 城郭が水原川を超える部分
にある水門。西洋式石造アーチの上に朝鮮式石組を積む。

 

 タン、タン、タタ。 タン、タン、タタ。

 大小の鼓を打ち鳴らして、男寺党(ナムサダン)の一座が大道を進んで行った。三拍子の開放的なリズムが、田畑も野山も躍動させていた。空は、今日もよく晴れあがっていた。歩いていると、身体(からだ)から汗が垂れて散ってゆくほどだった。藍、黄、赤、白の煌(きら)びやかな衣装が、周囲の地味な農村風景の中で際立っていた。草取りの鋤(ホミ)を握った村人たちが、作業の手を休めて、こちらを眺めている。「農者天下之大本」の旗幟を先頭に翻し、座員のうち数名が交代で、長い行列の前後を跳ね回って小鼓(ソゴ)を打った。
 茶山は、ぼくの進言を容れて、座員の服装に着替えていた。彼の文官服や紙、筆、キセルなどを納めた行李を、2名の座員が運んでいた。
 村の近くを通ると、子どもたちが歓声を上げて走り寄ってくる。子どもたちはみな素っ裸かだ。男たちも、大半は、よく日に焼けた上半身を露わにしていたが、女はみな、踝
(くるぶし)までとどく長いチマ〔スカート〕を穿(は)いている。その点だけが、ここが儒教の国であることを思い出させた。

 チャドルとぼくは、列の最後尾で並んで歩いた。きのうの襤褸(ぼろ)は、恥ずかしかったので捨ててしまった。もう眼が馴れたのか、ぼくの裸体を注視する者もいなくなったので、ぼくは裸かで通すことにしたのだ。ただ、ぼくのひ弱そうな足を見かねて、チャドルがどこかから靴を探して来てくれた。
 チャドルも、ぼくと並んでいるときには、着ているものを全部脱ぎ捨てた。彼はつねに、ぼくの手か腕をとり、けっして離さなかった。話しかけるときには、肩を抱きしめた。そうやって、自分そのままの姿でいるのが、ぼくら二人には似つかわしいと思ったし、チャドルもそう思ってくれているようだった。村人や、擦れ違ってゆく旅商人の眼にも、ぼくらのかっこうが奇異に映ることはなかった。少しくらい変ったことがあっても、鷹揚に受け入れてしまうふんいきが、この土地柄にはあったのだ。

【注】「ホミ」:「鋤」と書く。田畑の除草に使う小型の鉄製農具。草取りを、素手でなく「ホミ」で行なうのが、朝鮮農法の特色であった。移植ごての役割もする。

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 それでも、農楽の躍動的なリズムに合わせて足をはこんでいると、ぼくの股のあいだのものは、ときどき頭をもたげてくるのだった。それが、チャドルを喜ばせていた。ぼくのものが、大きく前に飛び出して、小鼓(ソゴ)のビートに合わせて揺れた時などは、彼はぼくの胸を横から抱いて、首すじといわず、顔といわず、舐めまわした。
 照りつける太陽の下で、こんなふうにしていたので、昼ころには、ぼくの身体
(からだ)はチャドルの唾液の匂いでいっぱいになった。ぼくの身体全体から、彼の匂いが発散していた。そのことがまた、ぼくの気持を有頂天にさせた。ぼくは、からだごと彼のものになったと感じた。ぼくがチャドルになったようにさえ感じられて、誇らしかった。

 コットゥセ(座長)と交わったことで、ぼくは皆から一目置かれるようになっていた。髭づらの男も、もう手を出さなくなった。茶山はもちろんのこと、年長の者たちは日差しを避けるために、両班(ヤンバン)のような黒い鍔広の帽子をかぶっていた。

 尖った岩をぎっしりと埋め込んだような低い山を背に、数十軒の草ぶきの小屋が集まった大きな村が見えてきた。一行は、

 「天下大将軍」
 「地下女将軍」

 と書かれた将軍標(チャングンピョ)のあいだを通って、リズムを踏みながら村の中へ入って行った。

【注】「将軍標(チャングンピョ)」:部落の入口に、魔よけのために置かれる2本の柱。↓写真は、西武秩父線高麗駅前にある模造品だが、こんなに巨大なものは現地ではめずらしい。

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      将 軍 標 (埼玉県日高市

 村のまんなかは広場になっていた。ぼくらが広場の中央に陣取ると、村人がおおぜい集まって来た。

 「農者天下之大本」

 の旗幟を中央に立て、大小の鼓手と鉦(チン)、ケンガリがそのまわりを廻(めぐ)って、プンムルの乱舞で演芸開始の雰囲気を盛り上げた。

 ゴーン ゴーン

 という鉦(チン)の重い響きが、腹の奥底から情熱を駆り立てるようだ。

 場の雰囲気が高まり、観衆のあいだから、

 「オイグ!」「チョッター!」

 と、声がかかるようになると、横笛と篳篥(ひちりき)と胡笛(ホジョク)が加わった。けたたましいほど野性的な響きが、村と野山を揺るがしている。座員のなかの少年たちが、舞いに加わる。そして、曲芸が始まる。体重の軽い子どもたちが、舞い踊る大人たちの肩に乗って、さながら踊るピラミッドのようだ。いよいよ激しく楽器を打ち鳴らしながら、曲芸がつづく。
 こんどは、座員たちはみな、長い条になった白布のついた帽子をかぶって、サンモノリ(吹き流し舞踏)をはじめた。踊り手たちがすばやく回転すると、たくさんの白い条が、渦のようになびく。たがいに縺
(もつ)れることも、むらを作ることもなく、美しい曲線模様を織りなして流れるさまは、みごとだ。

【注】「鉦(チン)」「ケンガリ」:「チン」は真鍮製の厚手のドラ。重い音がする。小節を刻むように、ゆっくりと打つ。「ケンガリ」は薄手で小型。高い音で、速く打つ。

【注】「プンムル」:「プンムルノリ」ともいう。「プク」(太鼓)「杖鼓(チャンゴ,つづみ)」「小鼓(ソゴ,タンバリン型の小太鼓)」「チン」「ケンガリ」など、主に打楽器を用いた演奏に合わせて踊る「農楽」の1ジャンル。躍動的な3拍子を基本とする。

【注】「胡笛(ホジョク)」:チャルメラに似たダブル・リード式縦笛。

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胡 笛 (ホジョク)      

 ぼくは、裸かのまま、広場のへりに膝を抱えて坐り、一座の舞踏を眺めていたが、自分も何かしなくては済まないような気がしていた。21世紀と18世紀の“落差”を利用すれば、村人を驚かすような手品は、いくらでも考えられたが、どれもこれも道具と材料が必要で、それらは、この時代にはないのだった。
 後ろを見ると、松の幹から松脂
(まつやに)が垂れているのが見えた。ぼくは、あることを思いついて、松脂を掻き取って集めた。踊りの交代で休んでいたチャドルのところへ行って、村の家から竈(かまど)の灰と鍋1箇、油と麦わら少々と、いろいろな大きさのパガジを貰って来るように頼んだ。

 でも、これがうまくいかなかった。チャドルには現代語が通じなかったのか、ぼくの発音が悪いせいなのか、チャドルが持ってきたのは、仮面劇の仮面やら、神降ろしの道具やら、ぼくの予想しない奇妙なものばかりだった。
 そこで、茶山に頼んで、筆談で通訳をしてもらった。茶山は、すっかり打ち解けて、気さくになっていた。ゆうべのあの近寄りがたい雰囲気は、いまはなかった。

 茶山は、こういう「科学」には興味があるのではないかと思ったが、案のじょうだった。石鹸の作り方は「西学書」で読んだことがあるが、実際に造るのは初めてだと、彼は言った(筆談で書いた。以下同じ)。
 ぼくは、石鹸の用途を説明した。すると、茶山は頷いて、みな「西学書」に書いてあるとおりだと言って、にっこり笑った。これからは、そういうさまざまなものを造って広め、民
(たみ) の暮らしを少しでも楽にしてやりたいと思っている。茶山はそう言って、遠い眼をした。そして、平原のかなたに霞んでいる真新しい城郭を仰ぎ見た。

 ぼくは、朝鮮にも当時の日本にもない城の形を見て、京畿道水原(スウォン)に新築された「華城」にちがいないと思った。ここは京畿道だということが判った。
 そこで、茶山の年譜を思い出したのだが、彼は、この暗行御史に任ぜられる前の数年間、水原
(スウォン)「華城」の設計と建築に従事していたのだった。「華城」は、西洋と中国・朝鮮の建築技術の粋を集めた建築物として有名で、21世紀には世界遺産に登録されている。茶山は、工事のための起重機なども発明して、民の力役の負担を減らしているのだ。

 そのことに思い当たった時、ぼくは、この万能天才人にとって石鹸造りなどは、ごくごく初歩的な技術にすぎないことに、ようやく気がついた。いま、見た目は男寺党の俄(にわ)か座長にすぎないこの人のスケールの巨いさに、ぼくは圧倒される思いだった。

 チャドルが、頼んだ品物を集めて来てくれた。ぼくは、鍋に水を汲んで灰を溶かして上澄みを取り、一座の炊事係に火を起こしてもらって、油を加えて煮立たせた。しばらく煮ていると、ふわふわした加里石鹸の塊が浮いてきたので、パガジで掬い取り、松脂を加えて、さらに煮た。これを盥(たらい)の水に入れて薄く延ばせば、シャボン玉液の出来上がりだ。
 茶山は、ぼくの操作手順を、熱心にじっと見守っていた。

 ぼくは、パガジのふちを切り取って、いろいろな大きさの輪っかを作った。輪っかでせっけん液を掬えば、大きなシャボン玉ができる。麦わらを短く切って作ったストローで吹けば、小さなシャボン玉がたくさんできる。

【注】「西学書」:西洋の科学、文化、キリスト教に関する書物。中国で書かれたものや、北京で漢訳されたものが、朝鮮王朝に持ち込まれた。『天工開物』『奇器図説』『坤輿万国全図』『天主実義』,ユークリッド『幾何原本』などが読まれた。

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「挙重機」の図。『華城城役儀軌』(1801年 銅活字本)より。

 広場の中央では、仮面劇の上演が終ったところだった。プログラムは、おしまいに近づいているようだった。ぼくは、チャドルに盥を運んでもらって、観衆の前に進み出た。ぼくはシャボン玉をはじめたが、はじめのうちは、村人たちはぼくが何をしているのかわからず、ざわついていた。

 シャボン玉がつぎつぎ風に舞って昇ってゆくと、人びとは静まって、ぼくに視線が集まった。大小の虹色の球がきらきら輝いて流れるのを見て、子どもたちが歓声を上げた。彼らは、ぼくと同じ素っ裸かの恰好で、ぼくのまわりに集まって来た。ぼくは、小さい子にはストローを、大きい子には輪っかを渡して、シャボン玉を作らせた。遠慮ない裸かがぶつかりあって、身動きがとれないくらいになった。

 彼らが上手に吹けるようになると、ぼくは座員から横笛を借りて、「アリラン」と「トラジ」を奏でた。この2つは、京畿道地方の古い民謡だと聞いていたから吹いてみたのだが、はたして村人たちは節回しを知っているようだった。ぼくの笛に乗せて唄いだす者もいた。
 「トラジ」を始めると、村人は老人を先頭に次々進み出て、脚で調子をとりながら、おもむろに舞うのだった。

 子どもたちが吹き上げるシャボン玉の一つ一つに、ぼくはさまざまな人の顔を見た。チャドルも茶山も、座のほかのメンバーたちもいた。村人たち、草莽のソンビたち、正祖王と高位の臣僚の姿も見えた。新宿のママも、ヒロトも、店に集まるゲイの面々もいた。東洋学の蓬髪の教授、ゼミの学生たち、DとE、ドイツ人留学生のMもいた。
 昇ってゆく途中で弾
(はじ)けてしまうシャボン玉もあったが、弾けても弾けても、また新たなシャボン玉が生み出され、膨らみ、覚束無(おぼつかな)げにゆらゆらと昇ってゆくのだった。

 茶山が、ぼくの傍らに来ていた。懐(ふところ)から巻き紙を取り出して、
 「我欲窮千里目」(我れ 千里の目
(もく)を窮めんと欲す)
 と書いた片句をぼくに示した。続きを書けというのだろう。ぼくは、
 「君更上一層樓」(君 さらに上
(のぼ)れかし一層の楼)
 と返した。茶山は続けて、
 「殉天飄莫憂」(天に殉ず 飄
(ひょう)として憂(うれ)いなし)
 と記した。

 無数のシャボン玉が飄々として浮かび、飄々として砕けていた。

【注】「我欲窮千里目」:唐・王之渙の五言絶句「鸛鵲楼ニ登ル」の転句をもじったもの。もとの詩は次のとおり。なお、作中の茶山が付け加えた句も、この詩の脚韻を踏んでいる(流 - 楼 - 憂 平水韻・十一尤)。

 白日依山尽(白日 山に依りて尽き)
 黄河入海流(黄河 海に入りて流る)
 欲窮千里目(千里の目を窮めんと欲して)
 更上一層楼(更に上る一層の楼)

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昧爽の迷宮へ(10) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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ソウル 南大門

 

 茶山は不安でならなかった。

 “東方隠者の邦(くに)”を震撼させた忠清道「珍山」の天主教騒動から4年、邪教禁圧を求める声は日増しに高まっていたが、正祖王と側近たちは、不気味な沈黙をつづけていた。天主教の禁圧は、「西学」すべての禁圧を意味する。北京から使節を通じて伝えられてくる西洋の学問と文化に、並々ならぬ関心を抱いてきた丁家の若者たちにとって、天主教とは、将来性あるすべての知識と一体になった学知にほかならなかった。「天主デウス」とは、彼らにとって、儒教の「天」と同じものだった。天主教を採るか排するかは、神を信じるか、信じないかの問題ではなく、いかにして正しく信じるかの問題だったのだ。

 (みやこ)では奇妙なうわさが広がっていた。王(イムグム)は、いよいよ天主教と西学を全面的に禁圧するために、さきに「珍山」で天主教徒らの謀反が起きた背景を徹底的に調査する、調査のために「暗行御史アメンオサ」を派遣するというのだ。逆に、次のようなうわさも頻りだった。人徳高き正祖王は、「珍山」騒動の折りに連座した人々を赦免し、温情ある措置によって、道を逸れた人びとを正道に立ち帰らせるために、あらためて騒動の拠って来た縁由を調査するという。そして、「西学」の弊害を言い立てて私腹を肥やそうとする貪官汚吏を摘発し、民情に従って処罰するというのだ。

 茶山らがよく知る正祖王の進取の気性からして、最初の噂はありえないことに思われた。しかし、2番目のうわさは、あっておかしくはない予想だった。そうなればよいという気持ちがある反面、御史(オサ)の大役を仰せつかった者は、どれほどの危険に見舞われるかを思えば、茶山らは、けっしてこの噂を喜んではいられないのだった。

 はたして、丁家に、朝廷から暗行御史アメンオサ任命の内示が伝えられた。白羽の矢を当てられたのは、長子・若銓ではなく、弟の若鏞(茶山)だった。そこに、この任務の危険の大きさと、失敗した場合に長子を失う不幸を免れさせようとする王の慈悲深き配慮を見て、茶山は恐怖に震えた。

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 辞令書を受け取っただけでは、噂どおりに「珍山」の調査が命ぜられたのかどうかは、知るすべがなかった。辞令書は絶対機密であり、都邑の城門を出るまでは、けっして開披してはならぬとされていたからだ。

 茶山は、わずかな側近の従者を従えて、屋敷を出発した。都城「南大門」を行き交う旅人や商人は、賢王の仁徳に満たされた平穏な治世を謳歌するかのように楽しげだった。門をくぐると、従者を休ませて馬から降り、辞令書の封印を切って開披した。任地は果して忠清道だった。とくに珍山郡については、過去5年間の歴代郡主の治績を徹底的に調査せよとあった。勅命の本意がどこにあるかは、問わずとも明らかだった。

 茶山は、落雷を受けたようになったが、平常心が戻るや否や、もはや何の恐怖も感じることがなかった。われ只、天に従うのみ。

 この手勢では、保守派の襲来を防ぐ術(すべ)もないが、いったん城門を出た以上、任務を完遂するまで、都城内に戻ることは許されなかった。茶山は、行程を変更して、男寺党の本拠地として知られた安城邑に投宿し、従者らに命じて、新たな一座を編成するために座員を募らせた。旅回りの一座の首領に扮装して“敵”の目をくらまし、任地へ安全に向かおうというのだ。

 座員の選抜にあたっては、武芸の心得ある者、忠誠心の旺盛な者、剛毅屈強の者を優先した。20人ほど集めると、屋敷から連れて来た従者たちは都(みやこ)に帰らせ、単身、にわか編成の男寺党の首領として旅程に身を投じた。

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 筆談しているあいだに、どれほどの時間が経っていたことだろう。もう陽が落ちて薄暗くなっていた。茶山のぼくに対する疑いは、すっかり解けたようだった。もちろん、論理的には何も解決してはいない。ぼく自身、どうしてここに来たのか、ふしぎでならないくらいだから。しかし、この国の人間は、みな心底(しんそこ)人がいいのだと思った。

 茶山が合図すると、いままでぼくの脇でじっと見守っていたチャドルは、亭閣の外に下がった。茶山は、おもむろに服を脱いでぼくに手招きした。ぼくは恐る恐る彼に近寄った。誰かに似ていると思った。風貌よりも、彼の存在が放射している眼に見えない雰囲気が似ているのだった。彼の洗練された物腰が、そう思わせるのかもしれなかった。しかし、優雅でありながらも、彼は自分のまわりに近寄りがたい圏域を作り出していた。ぼくは、新宿の店でママに初めて会った日のことを思い出していた。
 脱いだ肌に触れてみると、茶山の身体は意外に引き締まっていて若々しかった。そういえば、ぼくは茶山の年齢も知っているのだった。もし彼の言うように、暗行御史を命ぜられて調査地へ向かう途上だとすれば、満33歳だった。

 茶山は、まるでできの良い生徒を誉めるようにぼくの頭をなぜたあと、後ろを向かせた。生真面目な筆談のあとで、師のような人に剥き出しの尻を差し出すのは、正直恥ずかしかった。ぼくは顔が熱くなるのを感じながら、後ろをされるがままにまかせた。

 茶山が終えたあと、ぼくはまた彼と筆談した。ぼくは茶山に、その服装は男寺党の首領には見えないし、目立ってしまうだろう。みなと同じ男寺党の衣装を着たほうがよいと進言した。

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昧爽の迷宮へ(9) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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男寺党 サンモノリ(吹き流し舞踏)

 亭閣のある広場に着いた時には、身体(からだ)はすっかり乾いていた。浅黒い肌の少年は、座員たちに「チャドル!」と呼ばれて、声をかけられていた。老若の男ばかりの集団だった。チャドルより若い少年も混じっていた。ぼくには、声がかからない代わりに、鋭い視線を一斉に投げてきた。そして、さまざまな表情をした。自分の股ぐらに手を突っ込む少年もいた。遠慮のない眼で、舐(ね)めつけるように見ているのは、中年の髭づらの男だ。「ウェノム」「ウェノム、マシッスルコヤ」という声が、男たちから漏れた。「おいしそうな倭人」というわけだ。ぼくの真白い裸体が彼らの好奇心をそそるのかと思ったが、食欲もそそっているようだった。彼らとは異族であることは、顔と体つきから分かってしまうのだ。
 チャドルは、ほかの座員と同じ衣装を羽織って、腰を下ろした。ぼくを隣りに座らせたが、ぼくの着るものはなかった。さっきからいやらしい眼付きで舐
(ね)めまわしていた男が、襤褸(ぼろ)を持って来てかけてくれた。その序(ついで)に、股のあいだをじっくり手にとって品定めされたが。

 「チャドラ!」

 亭閣の中の士族(ソンビ)が、チャドルに声をかけて呼び寄せた。チャドルは、ぼくの手をとって立ち上がった。亭閣に上がってゆく途中で、くだんの髭づらの男がぼくの足をつかんだが、チャドルにぴしゃっと叩かれて退(しりぞ)いた。ぼくは上がり框(かまち)で足の泥を払った時、襤褸は脱ぎすててそこに置いた。亭閣の中はきれいな板敷きで、塵ひとつなく清められていた。そこに、汚れた襤褸をまとって上がることは憚(はばか)られたのだ。

【注】「チャドル」:吏読(りとう)で「次石乙」と書く。朝鮮時代の奴婢(奴隷身分)に多い男子名。呼びかけるときには助辞がついて、「チャドリ」「チャドラ」などとなる。「吏読」は、高麗・李朝時代に使われた、朝鮮語の発音を漢字で表す表記法。

【注】「ウェノム」:「倭奴」と書く。日本人の蔑称。

【注】「ソンビ」:士人。朝鮮王朝時代の支配階級の理想的な人物像。日本の「さむらい」に対応する。学識が高く、礼節・言動が正しくて、義理・原則を守り、官職・財産に慾がない高潔な学者肌の人。(小学館朝鮮語辞典』)

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 士人(ソンビ)は、床(ゆか)よりも一段高くなった雛壇(ひなだん)の上に坐していた。チャドルとぼくは、そこから少し距離をおいて並んで平伏し、チャドルは床板に額(ひたい)を擦りつけて、コン、コンと3回鳴らした。ぼくもそれに倣(なら)った。顔を上げると、ぼくは士人(ソンビ)の自尊に満ちた風貌に、曖昧な記憶を呼び覚まされたが、それ以上何も思い出せなかった。若い仕官者のようだった。士人はチャドルに問いかけ、二人はしばらくやりとりしていた。士人の言葉は、チャドルのそれよりも難しくて、ぼくにはまったく解らなかった。
 士人が、ぼくのほうに向きなおって、硬い表情でゆっくりと喋った。何か尋ねたが、やはりぼくには何も解しえなかった。そのあとは沈黙して、据わった眼でまっすぐにぼくを見つめた。チャドルも、隣りから心配そうにぼくのほうを見た。二人は、ぼくが訊問にどう答えるか、注視しているのだった。

 息詰まる時間が流れた。ぼくは、士人の前にある文机(ふづくえ)を無言で見つめた。薄手の紙を広げて、書状をしたためていたようだった。達筆な楷書で書かれた文の末尾に「乙卯〇月〇日丁若鏞茶山」と記されているのが見えた。「乙卯」といえば、丁茶山が暗行御史を拝命した年にまちがいなかった。ぼくは思わず、「タサンニム!」――茶山さま、と叫んだ。

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 茶山の反応は素早かった。傍らにおいていた小刀を引き抜くと、壇を駆け降りて、ぼくの喉元にぴったりとその切っ先を当てた。厳粛な低い声で、何か叫んだ。なぜ自分の名を知っているのか、と糺しているようだった。 チャドルが茶山に向かって、口早に何か言って取りなしていた。茶山は、小刀をぼくの喉にあてたまま不動の姿勢を続けた。チャドルがなお二言三言言い継ぐと、彼の表情が少しずつゆるんだ。

 茶山は、小刀を下ろした。

 茶山は雛壇から紙と筆を持ってくると、
 「汝姓名何也」
 と書いて、ぼくの胸元
(むなもと)に突き付けた。
 ぼくは受け取って
 「西雅也也」
 と書いて渡した。

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 「汝倭奴歟」
 「倭國良民也」
 「何故到此處来歟」
 「不知道理 欲拝佛寺而忘路 卒然到池水也」

 こんな調子で筆談が始まった。

 「怪異也 汝怪異之者歟」
 「非怪異之者也 晋陶潛武陵之人 溪行忘路 到桃花源之事也」

 茶山が眼を上げてぼくを見た。眼付きが変わっていた。「道に迷って桃源郷に辿(たど)り着いた」というぼくの話を信用したわけではなさそうだが、ぼくの古典知識を認めて一目(いちもく)置いたのだろう。

【注】「桃花源」:中国・晋の陶潜(陶淵明 365-427)が著わした『桃花源記』に、「晋ノ太元中、武陵ノ人、魚ヲ捕ラフルヲ業ト為ス。渓ニ縁リテ行キ、路之遠近ヲ忘ル。」とある。突然、川の両側が桃花の林になり、さらに溯行すると、水源に洞窟があって、洞窟を抜けた向う側は戦乱のない別世界だったという。これを故事として、幸福なユートピア世界を「桃源郷」と言う。

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昧爽の迷宮へ(8) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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 ぼくの背よりも高いヨシが、水面にまで生え広がっていた。路は、ここで行き止まりのようだった。風が吹いていた。森の奥からも、ごうごうという音が聞こえる。寂しく、恐ろしげだったが、さきほどのような恐怖は感じなかった。この世界の状況には慣れてきたと思った。50メートルほど先の水面で、何かが動いたような気がした。
 いまヨシが揺れたのは、風だろうか? それとも水鳥か何かか? イノシシとか熊とか、害をする生きものでないといい。ぼくは腰を低くして、異変の感じられた場所を見守った。

 すると、ヨシのあいだに、黄色っぽいものが見えた。こちらに近づいて来る。動物の毛皮ではない。はじめは、黄色い服を着た人間だと思った。さらに近づくと、服を着ていないのが分かった。日に焼けた褐色の肌が、巧みにヨシの繁みを捌(さば)いて歩いてくる。すらっとして、少年のように見えるが、背丈はぼくより高い。片手に、大きめの椀のようなものを持っている。逞しい胸が見えてきた。こちらを警戒するようすもないが、あきらかに、ぼくを目指して来る。精悍な顔立ちだ。繁みを透して下半身が露わになると、股のあいだのふわっとした毛に覆われたもの、そして細身の両足がまぶしかった。ぼくは自分の股のあいだにも特別な感触を覚えて、眼を落とすと、ぼくも服をまったく着ていなかった。ノートの入った鞄も、ほかの持ち物も、すっかりなくなっていた。少年のような裸かの若者は、椀を持っていないほうの手を振り上げて叫んだ。

 「アヤ! パガジ、オディロットンガ」

  少し考えてから意味が分かった。古めかしい言葉だが、たぶん李朝語だ。ぼくの知識が間違っていなければ、彼が右手に持っている容器がパガジで、ぼくが持っていないのはなぜだと訊いている。

 「モッラヨ」

 相手もきょとんとして、少し考えてから意味が分かったようだった。ぼくは現代語で、「わかりません。」と言ったつもりだ。

 「アヤ、イリオノラ!」

 浅黒い肌の少年は、ヨシの繁みの縁(へり)に立ち止まって、ぼくを手招きした。「アヤ」というのが、ぼくの名前らしい。「雅也(アヤ)」だろうか?

【注】「パガジ」:球形のヒョウタンの皮を二つに切った半球形の容器。水を汲むのに使う。

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 まるで異様な出会い方だが、ふしぎと気にならなかった。ぼくは彼のほうへ近づいて行った。はだしの足が滑って、転びそうになった。彼が駆け寄って、ぼくの腰をがっしりと掴んで抱き起こした。ぼくの身体は泥だらけだった。彼は、何か叱責するように叫び、右手のパガジで池の水を汲んで、ぼくの頭から掛けた。水は冷たかったが、寒くはなかった。それから、二度、三度、汲んではぼくに頭から浴びせた。

 ぼくは、彼の褐色の精悍な肌も濡らしてみたくなったので、手のひらで水をバシャバシャひっかけた。彼も、げらげら笑いながら応戦した。彼もぼくも、頭から股のあいだまでずぶ濡れにしてから水の上で抱き合った。彼の舌が入って来た。と、経験したことのない強い力で吸いはじめた。さも、ぼくの唾液を欲しがっているように。そしてぼくの目鼻をなめまわす。と、ぼくの頭をぐうっと押し下げて、怒張した股のあいだのを口に含ませた。ぼくは、こういうシチュエーションには馴れているけれど、これほど歓びを感じたことは今までになかった。

 あっという間に、真っ白い泡がぼくの口から水面に飛び散った。少年は、ぼくをまた引っぱりあげて、強い力で抱きしめた。ぼくを抱いて頻りに尻を撫でながら、肩の向うで何か喋っているが、ほとんど聞き取れない。コットゥセ(座長)様がおまえを欲しておられるのだが、「コッチョンハジマ。コットゥセニムケソ、プドゥロウンブニシルゴヤ。」優しいお方だから心配するなと言っているようだった。どうやら彼は、男寺党(ナムサダン)の一員であるらしかった。

【注】「男寺党(ナムサダン)」:朝鮮王朝時代の旅回り芸人一座。奴婢身分の男だけで構成され、村々を渡り歩いて、「農楽」、仮面劇、曲芸などを見せて投げ銭を稼ぎ、同時に若い座員に男色売春をさせて生活した。男色が広まることを恐れた朝廷は、同じ村に1日を超えて逗留することを禁じた。座長を「コットゥセ」という。

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男寺党(金弘道 1745 - post 1816)

 少年に手をとられて、ぼくは水面から上がり、森の中へ入っていった。彼の身体も、ぼくの身体も、水滴を垂らしていた。今まで気がつかなかったが、広いまっすぐな路が、奥へ通じていた。はだしで歩いていたが、草の上を歩くようにすれば痛くなかった。やがて、陽の当たる開けた場所に出た。小さな亭閣があり、その前で 20人ほどの男たちが、赤・黄・藍の衣装をまとって車座になっていた。「農者天下之大本」と書いた農楽の旗幟が亭閣に立てかけてあった。

 ただ、奇妙なのは、亭閣にいる座長の男が、他の者とは異なって、文官士族の服装をしていることだった。

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昧爽の迷宮へ(7) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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 池といっても、人工的な飛び石や灯篭のある庭園の池ではなく、森林に囲まれた窪みに水がたまった自然の湖沼のようだった。寺院の建物らしきものは見えなかった。それどころか、人の住んでいる気配さえなかった。あちこちに、枯れた倒木が朽ちていた。水はすきとおっていたが無色ではなく、青い色を帯びているように見えた。
 岸は砂礫でおおわれ、谷地菅
(やちすげ)がまばらに生えた不毛の湿原だった。樹木も、東京では見たことのない種類の針葉樹だった。

 ここは、どこだろうか? ぼくは意外の感に打たれて立ちつくした。水面の周囲には、岸に沿って、やはりかぼそい路が廻(めぐ)っているようだった。ぼくは、右のほうへ踏み跡をたどってみた。
 池は広く、岸は平坦で、歩くのに障碍になるものはなかった。森の中で襲ってきた底のない恐怖は、遠ざかっていた。寒くはない。むしろ、歩いてきたせいか、湿った空気が暑苦しく感じられた。

 ようやく平常心が戻ってくると、ぼくは、さきほど解読した暗行御史アメンオサの報告書を反芻していた。御史(オサ)は、朝鮮王朝下ではじめて起きたカトリック迫害「珍山教難」(1791年)の真相を、現地に潜行して探るようにとの王の密命を受けていた。それまで、李朝キリスト教を禁じてはいなかった。そもそも、キリシタンはほとんどいなかったと言われている。イエズス会宣教師による布教も、朝鮮には及んでいなかった。ポルトガルイスパニアの商人にとっても、宣教師たちにとっても、朝鮮は、ジパンとキタイ(中国)の陰に隠れて死角になっていたのだった。

【注】「珍山教難」:「珍山事件」「辛亥教難」ともいう。1791年、忠清道珍山郡〔現・忠清南道錦山郡珍山面〕の両班(ヤンバン)2名が、北京のカトリック司教の命令に従って、祖先崇拝を廃し、位牌を焼却した。朝廷は、これを体制に対する挑戦とみなして2名を処刑し、ソウルの支配層に対する取り締まりも厳しくして、キリスト教や「西学」の書物を焚書した。

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 ところが、この「珍山事件」を狼煙(のろし)の合図のようにして、天主教(カトリック)は朝鮮の国教である儒教に反する、しかも天主教徒は、外国軍隊の侵略を呼び込んで、王朝を倒そうと密かに企んでいる、との非難が巻き起こった。官僚支配階級のあいだに、キリスト教と「西学」(西洋文化)に対する恐怖が、燎原の火のように広がった。多くの宗教史家は、このパニックはむしろ、当時保守派の官僚グループが、自勢力の拡張を目的として引き起こした陰謀だったと見ている。

 時の朝鮮王・正祖は、儒教を改革し、西洋の文物を積極的に取り入れようとする「実学派」を重用して、開明的な施策を進めていた。進歩派の国王であった正祖の政治志向は、朝廷を中心とする集権化政策でもあった。これに対して、地方の実権を握る“草の根”勢力は、中央の保守派官僚と結んで、正祖の開明的政策を覆し、進歩志向の「実学」官僚を政権から追放しようとしていた。

 そこで、“さいしょの発火点”となった「珍山事件」も、保守派による陰謀ではなかったか、との憶測が成り立つ。

 正祖が、真相究明のために忠清道「珍山」に向かわせた暗行御史は、いまぼくが解読した新史料によれば、「実学派」の巨頭・丁茶山(チョン・タサン)であった。
 茶山が 1795年に暗行御史を拝命したことは、以前から知られていたが、その任務が「珍山事件」の調査だったということは、まだ誰からも指摘されていない。読み違えでなければ大発見だ! と、ぼくは胸の中で小躍りしていた。

 しかも、茶山の報告内容は、それ以上だった。「珍山」の天主教徒は、《壬辰倭乱》で「倭国」に連れて行かれた捕虜たちが、九州のキリシタン大名のもとでイエズス会司祭から洗礼を受け、徳川幕府キリシタン禁令にともなって、迫害を避けて帰郷し、潜んでいたのだという。もしそれが本当なら、朝鮮天主教の起源は、日本のキリシタンに繋がっていることになる。

 しかし、これはキリスト教の禁止を主張する李朝の保守派にとっては、願ってもない口実になったかもしれない。天主教徒は、西洋人の手先であるだけでなく、侵略者秀吉と「倭奴ウェノム」の手先でもあるのだから。それだからこそ、保守派は「珍山事件」のフレームアップを企てたのだし、茶山ら「実学派」は、それに、どれほど悩まされたか知れないだろう。

【注】「壬辰倭乱」:1592-93年。豊臣秀吉の引き起こした戦乱「文禄の役」の、中国・朝鮮側での呼び名。「慶長の役」(1597-98年)は、「丁酉再乱」。
【注】「丁茶山」:丁若鏞(チョン・ニャギョン 1762-1836)。「茶山(タサン)」は、号。朝鮮王朝時代の官僚・儒学者・思想家。「実学」を集大成し、西洋の科学・工学などを採り入れた。キリスト教の教理も研究したため、1801年「辛酉教難」に連座して流刑に処せられた。流刑地で、『経世遺表』『牧民心書』等を著わし、大胆な国政改革とユートピア社会の構想を描いた。

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 ぼくはもうだいぶ歩いて、池を半周くらいしたようだった。さっき森から出てきた場所は、もうどこだかわからなくなっていた。しかし、さっきの場所とちがって、この辺の池の底は黒っぽい泥で、丈の高いヨシ、ガマが密生していた。

【注】注に書いている史実と、本文の内容が、微妙に食い違っていることにお気づきかもしれません。しかし、これはわざとそうしているのです。その理由は、小説の最終章で明らかになります。

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