再開します! のごあいさつ Saluto por nova periodo
東京と河ひとつへだてた地で二人暮らししておりますギトンです。「ところで、ゲイでもあります」くらいに(笑)、まあふつうに同性愛者です。
しばらく……いやはや、だいぶんと、こちらのブログを留守にしておりました。
休止前の最後が、B氏ピアコンと宮沢賢治。亡くなる1か月前のレコード鑑賞のせいなのか、鬼気迫るのは、曲よりも聴いてるほうの頭の中じゃないかと思いたくなる感想でした。
さて、こちらのブログでは、僕の個人的なことを書きたいと思います。いま動いているどのブログも、個人などはまったく放り出して忙しくなってしまっているので、落ち着いた内省の機会というのはあまりない。ま、それぞれに役割があるので、自分本位のひとりごとなどは当分割り込めそうにありません。なので、こちらで、ちょっとは、というわけです。
それと、CROOZに載せていた賢治関係記事の引っ越し先がなかなか見つからなくて困っています。CROOZは、予告なしの仕様変更を2回されたので、いままでに上げていた記事がメチャクチャになってしまいました。1記事の文字数制限で記事が細切れに分断されたり、背景の緑色を白に変えられたので、黄色や薄い色の字が見えなくなってしまったり、写真を小さくされたり……。莫大な損害です。
女の子のお化粧品紹介記事ばっかのCROOZになんか、載せていたのが悪いんでしょうけれど。。。
もしかすると、CROOZの記事を、直しながら少しずつこっちに移すかもしれません。
なんで、再開する気になったのかというと、数年前、こちらを更新していたころに、並行して、あちらはほとんど毎日ですな、ブログを書いていたG男子がいて、なぜか突然消えてしまったのですが、……最近その人がブログを再開したので、ぼくもまた書こうかな、というわけ。つまり附和雷同ですなw ←
そこでの話題を拝借なんですが、「男女より、ゲイの♂♂のほうが、カップルの続く長さが短い」→ たぶんそうなんでしょうな。インスタント・カップルメンズは、昔から多いし、そうでなくても、1年続いたら長いほう……とか、ゲイ自身が、嘆くでもなく、反省するでもなく、「日本人はコロナの入院期間が短い」と言うのと同じ調子で言ってますからなw。もちろん、例外は多いんですけどね、ぼくのまわりを見ても。
で、それでも、「長くても短くても深いほうがよい」と →ここで、ぼくは立ち止まってしまうわけですな←
「長い」とか「深い」とか、……とくに「深い」のほうは、抽象的な言い方ですよね? 何をもって「長い」と言うのか? たとえば、いつからいつまでを測るのか? 何をもって「深い」と言うのか? たとえば、ぎゅっと抱きしめ合うと深いのか? 感情が激しければ深いのか? 舌をノドチンコまで入れれば深いのか? BL小説を実演してるようなのが深いのか? 逆に、他人から見たら何でもないようなのが、本人らにとっては「深い」ということもあるんじゃないのか? そもそも、「深い」の反対語は「浅い」なのか、「軽い」なのか、もっとほかの語なのか?
これだけでも、ずいぶん理屈っぽいと思うでしょうね? しかしこれはまだ序の口、あくまでも、みなさんに説明するための前置きです。ぼくの思考は、↓こういうほうへ、飛んでしまいます:
「長い」「短い」「深い」「浅い」「軽い」「重い」が、どんな被修飾語と連合するのかを“実験”してしまうんです。(こんなことするゲイって、ほかにいませんよね←)
○は、日本語でふつうに使われる言い方。△は、あまり使われない言い方。×は、「書き間違え」に見える言い方。
〇時間が長い。〇時間が短い。×時間が深い。×時間が浅い。×時間が軽い。×時間が重い。
〇つきあいが長い。〇つきあいが短い。〇つきあいが深い。〇つきあいが浅い。×つきあいが軽い。(〇軽いつきあい) ×つきあいが重い。
×愛が長い。×愛が短い。〇愛が深い。△愛が浅い。〇愛が軽い。△愛が重い。
×心が長い。×心が短い。〇心が深い。△心が浅い。〇心が軽い。〇心が重い。
〇気が長い。〇気が短い。×気が深い。×気が浅い。△気が軽い。〇気が重い。
×情が長い。×情が短い。〇情が深い。(〇なさけ深い。) △情が浅い。△情が軽い。×情が重い。
ここからわかるのは、「長い」か「短い」かが問題になるのは、「時間」「つきあい」「気」(個人の「気持ち」とは別の、個人をとりまく雰囲気、趨勢、環境世界の性情)について考えている場合だ、ということです。いわば、“外部から見た客観的な状況”。……しかし、これも大切。自分を時々、第三者の眼で見ることは、必要なことですから。
逆に、「長い」か「短い」かではなく、「深さ」を問題にしたいのであれば、「愛」「心」「情」にだけ注目すればよい。重要なのは、これらの語は「浅い」とは結びつかないことです。「愛」「心」「情」によって考えること自体が、ひたすら「深い」ほうへとみちびく。けっして「浅い」ほうへは行かなくなる、‥ことになります。
また、とくに、「重い」のは負担になる、「重い」のは避けたい、と思うのであれば、「気」よりも「心」を、「心」よりも「愛」を、「愛」よりも「情」と「つきあい」を重視したほうがよいことになります。
いかがでしょう? ↑以上はけっして、ぼくの考えを書いたのではありません。日本語の「言葉」にそなわった「くせ」を顕微鏡で覘くと、こうなる、というだけのことです。しかし、私たちの思考は、無意識のうちに、「ことば」によって規制されています。そのしくみを明るみに出してみることも、時には必要ではないでしょうか?