ギトンの秘密部屋だぞぉ

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昧爽の迷宮へ(4) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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 ママの声が、遠くからだんだん近づいてきた。

 「マサヤ、もう上がっていいぞ。ひとりで帰れるか?」
 小声だったがそう言っているのが聞き取れた。ママは、店ではオネエ言葉だが、ぼくらに小声で指示するときは、男の口調に戻る。

 「ちょっと立ち眩みしただけです。なんでもないです。」
 そう言いながら立ち上がったが、また天井が揺らいだ。今度は、ママがぼくの腰を腕で支えた。なよなよしたオネエの外見に似つかない、がっしりした腕だった。

 ママがヒロトに何か耳打ちした。
 「いいか、俺んち行って休んでろ。危なっかしくてしょうがないよ。」
 ママがぼくに言った。声は笑っていた。

 ヒロトが、ママのマンションの部屋までエスコートしてくれた。ヒロトは店へ戻って行った。外から鍵のかかる音がした。

【注】「オネエ」:女のような言葉づかいの男性。本来は、ゲイに限らないが、とくにゲイの「オネエ」は、好んで女言葉を使い、意識してフレキシブルな動作をする。しかし、声は男のままで、ふだんは女装も女化粧もしない。彼らの使う女言葉が「オネエ言葉」。

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 ママの部屋は何度目かだったから、勝手は分かっていた。風呂場でシャワーを浴びて、外に懸けてあるバスタオルを使わせてもらった。持参の歯刷子(はぶらし)で歯をよく磨いて、服は着ないで、そのまま寝室の、ひとつしかないベッドに潜り込んだ。ママの匂いがした。

 2年前、友人に誘われてママの店に行き、ママに初めて会った時、ぼくは、こんな人が実際にいるんだろうかと驚いた。とくべつな雰囲気があった。そういうオーラが、身体(からだ)全体から発散していた。初めての日が、もし混んでいる日だったら、それは分らなかったかもしれない。しかし、その日は、ぼくと友人のほかに客は、いなかった。

 それから何度か来るうち、ほかの目的で新宿に行っても、なんとなくこの界隈に来て、ママの店に寄るようになってしまった。行くと必ずママに声をかけられ、有ること無いこと突っこまれて慌(あわ)てるのが快感になっていった。ママはぼくだけでなく、誰に対してもそうなのだ。ある時、店子のひとりが急に実家に帰ることになり、人手が足りなくなった時に、手伝いを頼まれてカウンターの中に入った。育った家庭環境のせいで台所仕事には慣れていたので、重宝がられた。といっても、この店で出すのはもっぱら酒類、飲料と「乾きもの」に限られていたが。

 ママとの距離が縮まるにつれ、最初に会った時の印象は薄れていったが、しかしそれはときどき呼び起こされた。近づいてゆくと、ぼくの知らない世界に引き込まれてしまうような恐ろしさがあった。といっても、何か、ぼくが怖いと思うようなことをママがしたり、ママの周辺で起こったりするわけではない。にもかかわらず、最初の印象のせいなのだろうか。未知の世界に放り出されて、どうしたらよいか分からなくなる恐怖を想像した。取り越し苦労と言えば、それまでなのだが。

 店は、新宿の他のゲイバーと同様に、本来は夜通し朝までの営業なのだが、最近は、終電前に閉店する日が多くなっていた。疫病がはやっているせいで、営業短縮が要請されているのだ。それでも、頑固に夜通し営業を続けている店も少なくなかった。

【注】「乾きもの」:せんべい、チョコレート、するめ、など、調理しない「おつまみ」。

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 ベッドに入ると睡魔に襲われた。目を開くと、窓ガラスの外が少し白んでいるような気がしたが、また、うとうとしてしまった。

 鍵で玄関を開ける音がして、誰かが入ってきた。寝室に入って来て、暗いままベッドのぼくをじっと見ている気配がした。ぼくは半睡から脱け出られなくて、眼を閉じたままだった。睡覚の向うで風呂場のシャワーの音がした。ふたたび睡眠に落ちようとしていると、毛布が剝ぎとられ、肌が重なってきた。
 「マサヤ。……だいじょうぶ?」
 鼻のすぐ上で、ママの声がした。ぼくは眼を開けて頷
(うなず)いた。
 「ちょっと立ち眩
(くら)みしただけ。」
 唇が一度重なる。
 「気をつけなくちゃだめよ」
 頷く。ぼくのほうから口をつけた。

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