ギトンの秘密部屋だぞぉ

創作小説/日記/過去記事はクラシック音楽

なぜなら、魂は死すべきものだから quandoquidem natura animi mortalis habetur.

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 Nil igitur mors est ad nos neque pertinet hilum, quandoquidem natura animi mortalis habetur.

 Therefore death is nothing to us, it matters not one jot, since the nature of the mind is understood to be mortal.

 Lucretius: De Rerum Natura (On the Nature of Things), Book III, lines 830–831 (tr. Rouse)

 それゆえ、死はわれわれにとって何ものでもない、毫毛すら揺らぐことはないのだ。なぜなら、魂の本性は死すべきものと解されるから。(拙訳)

 

 人間の肉体が「死すべきもの」であるのと同じように、魂もまた不滅ではなく、(肉体の死とともに)原子に分解し、消滅する。しかし、それだからこそ、われわれは死を恐れる必要などない、とルクレチウスは言うのです。

 なぜなら、人の死は、恐るべき瞬間でも何でもない。形のある物体が、いつかは風化して崩れるように、われわれの精神もまた終焉を迎える。魂にとって、新しいことは何も起きなくなる、喜びも、苦悩も。それというのも、魂は存在しなくなるのだから。ただ、それだけのことではないか、と。

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 《アメーバ》のほうに、モンテーニュの名言「ク・セ・ジュ(私は何を知っているだろうか?)」をブログタイトルにしている方がおられるのですが、ぼくは、新潟県のお宅の近所の山々での野草観察記事を見て、ときどき拝見するようになりました。

 ところが、まもなくその方は海外協力隊?で、ケニアに赴任し、現在はナイロビで協力指導をされながら、現地の野草、野鳥などを発信しておられます。しかも、これがはじめての海外赴任ではなく、定年退職後の何度目かの派遣だというのですから、ぼくなどは足もとにも及ばない、すごい方なのです。

 その方が、《原子論》で有名な古代ローマの詩人ルクレチウスの『物の本質について』をレヴューしておられました。ここでちょっと紹介させていただきます。

 なお、原記事2回分をまとめ、途中を大きく端折って、ギトンの勝手で要約しております。正確な記事と、ブロガーの本意は、どうか、↓リンク先で確認してくださいますよう‥。

 

ameblo.jp

『今読んでいるルクレーティウス『物の本質について』(樋口勝彦訳、岩波文庫からの一節を。〔‥‥〕

 「であるから、精神の本質は死すべきものである、と理解するに至れば、死は我々にとって取るに足りないことであり、一向問題ではなくなって来る。……(中略)…… 結合して現在我々というこの一体をなしている此の肉体と魂(アニマ)とが分離を起こして、我々という者がもう存在していなくなる未来においても、たとえ大地が海と混じ、海が天空と混じ合おうとも、我々にとっては――も早や存在していない我々にとっては――全く何も起り得る筈はないし、我々の感覚を動かし得る筈もないであろうことは明らかである。(pp. 146-147)

 この巻(第三巻)では、精神や霊魂といったものが不滅であるという主張を彼はひたすら反駁し、精神は死滅することの論証をあれやこれやと試みています。
 そこで、もし肉体の死とともに精神も死すものであるとすると――彼は精神も原子で構成された物質であると考えています――、自分が死んでもそれを感ずる主体である自分、および感覚も存在しなくなるので、死は結局は自分にとって何でもない、と言っているわけです。
〔‥‥〕

 「そういう身も蓋もない言い方をされたところで、死の不安や恐怖、哀しみが取り除かれるわけではない」

 と言いたくもなってくるかもしれませんが、ある意味、禅や老荘思想のように、生死を超えているとも言えるものの見方で、強い生き方につながってくるものかもしれません。』

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〔‥‥〕このあたりは本書の一つの佳境とも言える部分で、それまで原子論を主張し、精神が物質であること、従って死すべきものであることを論証をしてきて、この第三巻の最後の方で、それらからの帰結として、死は恐れるべきのではないという主張になります。私も一つの思想として、こういう考え方を知っていましたし、また部分的には同意していましたが、あらためてその件(くだり)を読んで、再び非常に考えさせられました。そして、自分の人生に生かすための教訓になると考えました。

 「なお又、もし万物の本質が突然声を発して、我々の内の誰かに向かって、『おお死すべき人間よ、何だってお前は余りに痛々しい悲嘆にそのようにひたるのだ? 何だって、お前は死を嘆き悲しむのだ? 今は過去となったお前の以前の生活がお前にとって喜ばしいものであったとすれば、又お前の幸福がいわば穴のあいた器の中へでもかき集めたもののように流れ抜けてしまって、満足を得ることなしに失ってしまったというのならばとにかく、そうでない限り、ちょうど宴の客のように生命という御馳走に満足して、何故満足した心持で平穏な休息を求めようとはしないのか? 馬鹿者め。
  又、お前が享
(う)けたものが徒(いたず)らに流れ消え失せたとして、嫌な一生だったとしたならば、何だって更に多くを加えたいと望むのか? ――むしろ生命、即ち、苦難に終りを告げようとはせずに、ただ不幸のうちに再びこれを失い、満足を覚えずに消え失せるようなものを望もうとするのか? これ以外には、お前の満足するようなことは何も俺には案出することも考え出すこともできない。
  
〔‥‥〕自然は更に声を大きくして、一層烈しい言葉を用いて叱っても無理はないであろう。『〔‥‥〕お前は常に、ない物を欲しがり、持っているものを蔑むが故に、お前の人生はま完うするに至らず、満足に思うことなく過ぎてしまったのだ。そして、お前が満足を感じ、現世に満ち足りて引揚げることができない内に、思いがけなく死がお前の頭上にせまって来てしまったのだ。然し、もうお前の年齢(とし)に似合わしくないことは皆捨ててしまえ。そして心を安らかにして、さあ、威厳ある者らしく立ち去るがいい。そうでなくてはならぬ』と。
  自然が云うことは、蓋し正当であろう。叱るのも、責めるのも尤もだ。何故ならば、古いものは絶えず新しいものに押しのけられ、一つのものから別のものが生み出されなければならないのだから。」
(第三巻、931-965、岩波文庫版 pp.151-152)

 人生が楽しいのであれば、満足した状態でそれを終えればよいし、人生が辛く苦しいのであれば、それから解放されることを喜べばよい。もちろん、死後には満足も喜びもなければ、苦痛も悩みもない。
 だから、なぜ死を恐れる必要があろうか?
 そういうことでしょう。』

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 ギトンのコメント:↓

『ありがたく読ませていただきました。
 私などには、とうてい達しえない境地ですが、

 「古いものは絶えず新しいものに押しのけられ、一つのものから別のものが生み出されなければならない」

 という部分に惹かれました。
 死と老いを厭うのは、「時間を戻してくれれば、自分はやり直せる。もっとうまくやれる。」と思うからだと思います。一度生きた経験によって得た知恵で、あの時代を、若い肉体で
もう一度やり直したい、そうすれば、もっと幸福になれるはずだ、というわけです。進歩への願いが、より良いものを自分のものにしたいという欲望と、結びついてしまうのです。
 しかし、生きているのは自分だけではない。日々、「新しい」「別のもの」が誕生し、生長してゆく‥‥ことに気づくならば、いつも「新しいもの」に耳を傾ける、自分(古いもの)の判断を押しつけない、「別のもの」が生まれるのを妨げてはならないーー。そういうことに心がけるようになります。そうすれば、私のような者でも、少しはルクレティウスの境地に近づくかもしれない。

 私が今すぐに実践できるのは、そんなところです。』

 

 きょうは、ちょっと背伸びしすぎだったかもしれません。哲学って、むかしからぼくには全然わかりません。宗教も同じw ← …… でも、「こうすればトクだ!」みたいな処世訓じゃあなくて、道徳でも、お説教でもない、なにか善悪を超えた高い立場からものごとを眺めているような本は、好きです。そこに書かれている・ごく一部でも、自分のふだんの生活や考え方に取り込めたら‥‥と思うと、興味は尽きないのです。

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