ギトンの秘密部屋だぞぉ

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忘れられた作曲家

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「チョクルリア(ひばり)」の作曲者チプリアン・ポルンベスクのことが、すこし分かりました↓
Balada Ciprian Porumbescu - YouTube
Balada, Ciprian Porumbescu, Romania

↑映っているのは、チプリアン12歳以後の実家で、ここで亡くなっています(生家も保存されていますが、もっと貧しい家です)
牧場とりんご畑に囲まれたのどかな田園の村ですね‥
本人と両親の肖像画、本人の使っていたピアノが展示されています。お父さんはバイオリンを弾いていますが、ギリシャ正教の牧師でした…

(↓以下、つたない語学力でルーマニア語を拾い読みしているので、違っていたらゴメンナサイ…w)
チプリアン・ポルンベスクは、1853年生まれ、1883年没ですが、誕生日より前に亡くなっているので 29歳 です。
貧しい牧師の家に生まれました。ルーマニアとチェルノヴィッツ(現・ウクライナ)で音楽を学んだあと、20-24歳の5年間は、父の意向でしょうか、ルーマニアで正教神学を学んでいます。当時、ルーマニアはまだトルコ帝国の支配下にありましたが、1877年に露土戦争が勃発すると、これに乗じて独立宣言、ロシア側についてトルコを相手に独立戦争を戦います。
ポルンベスクは、こうした祖国独立の動きに刺激されてか、26歳の1879年にオーストリア・ウィーンの「Konservatorium fuer Musik und darstellende Kunst(ウィーン音楽芸術院)」に進み、ブルックナーらと知己を得ました(1879-1881)。その一方でルーマニアの若い学生たち、芸術家たちと《青年ルーマニア》という団体に参加、ルーマニアへの祖国愛からインスピレーションを得て作曲に打ち込んだようです。音楽院を出た1881年に、ブラショフ(ルーマニア中部の都市)の高等学校で音楽の教授に就任(この年ルーマニアは、王国として独立を達成)1882年には2幕のオペラ「クライ・ノウ」を作曲し、学校で初演しています。
チプリアン・ポルンベスクは、250曲を越える作品を遺しており、ルーマニアでは“もっとも愛されている作曲家の一人”なのですが、外国ではほとんど知られていません。
作品としては、この「バラード」が有名で、ほかに「ルーマニアン・ラプソディ」、ピアノ曲がいくつか、2篇の愛国歌──その一方は、ルーマニアの旧国歌「三色旗」となり(現在の国歌は別の歌に変っています)、もうひとつはアルバニアの現国歌になっています。
1882年に「クライ・ノウ」が好評を博すると、ポルンベスクは政治活動(独立急進派?)の咎で逮捕されますが、獄中でも活発に作曲を行い、「ルーマニアン・ラプソディ」ほか8篇以上の作品が遺されています。獄中で(?)結核を患い、翌1883年に↑上のビデオに出ていたストゥプカ村の家で亡くなっています。

Gheorghe Zamfir & Phoenix Balada de Ciprian Porumbescu - YouTube
前回登場したザムフィルのパンフルート
ポルンベスクの「バラード」‥


ポルンベスクの曲を聴いてみると、

「バラード」は、悲哀をひめた主旋律が特徴的なロマンチックな曲ですね。2〜3回聞くと覚えてしまいます。
ルーマニアン・ラプソディ」は、ヤナーチェクや、チャイコフスキーの初期のシンフォニーを思わせるロマン派的な交響詩
長生きしていれば、ドヴォルザーク(彼も生前は無名、死後に古本屋に出された自筆楽譜が再発見されて有名になった‥)、シベリウスムソルグスキーと並ぶ大作曲家になったのではないか……と思うと残念でなりません。。。

「チョクルリア」は、そういうポルンベスクが、大作のあいまに思いついた小品なのでしょう‥‥

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