ギトンの秘密部屋だぞぉ

創作小説/日記/過去記事はクラシック音楽

昧爽の迷宮へ(6) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

昧爽の迷宮へ(5)←   →昧爽の迷宮へ(7)

f:id:gitonszimmer:20220117101818j:plain
東洋文庫』内 「モリソン書庫」

 

 朝のうちに、ママの部屋をあとにした。ぼくは今日は非番だが、ママは今夜も徹夜営業になるから、よく寝ておかないとしんどい。ぼくが睡眠の邪魔をするわけにはいかなかった。

 地下鉄で千石(せんごく)へ向かった。きょうは学校のゼミもないし、『東洋文庫』で、じっくり資料調べができそうだ。閲覧室に入って、マイクロフィルムを出してもらう。朝鮮李朝暗行御史が王に提出した報告書。関心があるのは「邪教」、とくに天主教(カトリック)の浸透と弾圧を述べた部分だ。草書で書かれているので、一字ごとに草書字引の模範と見比べて読みとらなくてはならない。 

 しかし、昼過ぎには、フィルムを返して外に出てしまった。胸がいっぱいになって、読みつづけるのが辛(つら)くなったのだ。散歩でもして、頭を冷やしたいと思った。報告書は、「教難」の生々しい実情を述べた部分に差しかかっていた。
 『文庫』を出て、『六義園
(りくぎえん)』の角から本郷通りをまっすぐ南へ歩いて行った。きのうより気温が低いが、よく晴れている。人通りは少ない。

【注】『東洋文庫』:旧三菱財閥第3代当主岩崎久彌が1924年に設立した図書館・研究所。漢籍40%,洋書30%等からなる約100万冊を所蔵。世界5大東洋学図書館の一つ。東京都文京区所在。ホームページ⇒:公益財団法人 東洋文庫
【注】「暗行御史(アメンオサ)」:朝鮮王朝で地方官の行政を秘密裏に監察して王に報告する国王直属の官吏。命ぜられた地域へ変装して潜入し、実情を内偵した。厳しい任務だったが、多くの優れた高官が、昇進の過程で経歴している。
【注】「教難」:キリスト教、とくにカトリックに対する弾圧。朝鮮王朝におけるカトリックの弾圧は、信者全員を、棄教した者まで処刑するなど、きわめて苛酷であったことが知られている。

f:id:gitonszimmer:20220119220502j:plain
六義園(東京都文京区)    

 『六義園』の前を通ると、人がぞろぞろ入っていくのが見えた。まだ紅葉が残っているのだろう。しかし、ぼくは『六義園』には入りたくなかった。園内には、池も日本庭園も散策路もあるが、あまりにも手入れがよく、きれいに整いすぎているのだ。ここの樹々は、生い茂っているのではなく、適切に整形されて陳列されている。ぼくは、そういう風景を見ると悲しくなってしまう。動物園の檻(おり)に入れられた猛獣ならば、アフリカの原野には帰れないとしても、檻を破って脱走することはできるかもしれない。でも、樹々は動けないのだ。人間の美感を満足させるために、好きなだけ剪定され、飽きれば伐り倒されてしまう。

 不忍(しのばず)通りの交差を過ぎると、両側のビルが低くなって、道路は本郷に向かって上り坂になる。道路の両側に、古い寺刹の土塀が並んでいる。ひとつの寺の山門が眼を惹いた。見慣れない様式だ。扁額がないので、寺の名前もわからない。仁王もいない。
 かわりに、門の中に空間があって、鼻の短い奇妙な象に腰掛けた等身大の普賢菩薩が置いてあった。菩薩も象も、張り子に絵の具で、稚拙な目鼻が描かれてあった。菩薩の真白い裸体が、みょうに艶
(なまめ)かしかった。顔が誰かに似ていると思ったが、誰なのか思い出せなかった。

【注】「普賢(ふげん)菩薩」:「普(あまね)く賢い者」を意味する菩薩〔菩薩とは、如来となるため衆生救済の行(ぎょう)を修行中の仏〕。白象の上に坐す形で表される。

f:id:gitonszimmer:20220119230408j:plain

 門を抜けると、鬱蒼とした樹林がどこまでも続くばかりだった。本堂がどこにあるのかもわからない。路は、参道にしては、か細く、くねくねと曲り、何度も分岐した。どちらへ曲ればよいのかわからなかったが、適当に曲った。こんな広大な寺院が、こんな場所にあるとは思わなかった。いままで気づかないでいたのが、ふしぎだった。しかし、いくら歩きつづけても、樹(き)が密に立てこんだ森林が続くばかりだった。だんだん不安になり、戻ろうと思って振り返ると、後ろは遠くのほうがぼやっとして、来た路が消えているように思われた。底のない奈落を見たような恐ろしさにとらえられて、足が竦(すく)んでしまった。とにかく前に進んで行けば、どこかに出るだろう。進んでいくほかはないと思った。

 いきなり、ぽっかりと森が開
(ひら)けて、広い池のほとりに出た。

ameblo.jp

f:id:gitonszimmer:20220120001505j:plain

昧爽の迷宮へ(5)←   →昧爽の迷宮へ(7)

その後の「ぼく」 Der "ich" in der Prosa heutzutage.

f:id:gitonszimmer:20220118125157j:plain

 

 

 こんばんは。

 おかげさまで、作中「ぼく」にも「マサヤ」だなんて、それっぽい名前がついて、いっちょまえにホモセックスなんかしちゃって、申し分ない今日この頃でございます。
 それでも、彼の「トンデモ」発言は相変らずで、さいきんは、↓こんなのがありました。

 「そういうのに付き合ってくれる人は、男にも女にもいないのが残念だ。」

 まるで、ぼくは異性とだって人並みにやってますよ、と言わんばかり。そうなんでしょうけど。

f:id:gitonszimmer:20220118125705j:plain

 でも、小説のプロットとしては、想定された範囲です:“ディープキスを1時間でも2時間でも、ずーっとしたいんだ”――という「ぼく」の発言は。そういう男の子として造形してますから。

 ただ、それに付き合う人が「男にも女にもいない。」というのは、ぼくの知るところでは事実と違います。ディープキスがセックスより好きだという人は、たしかにいます。手の届く人ではありませんでしたが、初めて会った時に1時間以上、ディープだけをしてた相手がいました(いま思い出しました)。二人ともシャワーを浴びて、裸かでベッドの上にいるのにです。ですから、「ぼく」の認識は誤りです。しかし、「ぼく」のキャラとしてはそれでよいので、この発言は想定内でした。

 さて、このまま“ゲイ小説”になるのかというと、ぜんぜん違います。じつは、小説の最後の回が、あらましできあがりました。なので、この小説は《完結》保証付きになりました。

 でも、そこへつなげる過程が、なかなか複雑で、書くのに骨が折れそうです。やっぱり、チャンバラもロマンスもあったほうがいい、なんて欲張ってますが。。。 チャンバラ? そう、チャンバラが出てくるんです。うまくいけば、一風変わった剣戟(けんげき)をお目にかけられそうです。妄想を育てるには、場所の取材も必要……ということで、行ってくるのに少し時間がかかります。取材場所って、もちろんゲイタウンなんかではありませんよw

ameblo.jp

f:id:gitonszimmer:20220118130729j:plain

  Elie Grekoff (1914–1985): Tiresias Jouhandeau, figure XII.

昧爽の迷宮へ(5) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

昧爽の迷宮へ(4)←   →昧爽の迷宮へ(6)

f:id:gitonszimmer:20220116170430j:plain

 

 

 ママは掌(てのひら)で、ぼくの胸から下のほうまで何度も触りまわしてから、今度は舌でゆっくりと上がってきた。ぼくは鎖骨の前後を舐められるのが好きなのだけれど、きょうはそこにはこだわってくれない。首の横から耳のほうへ来た。吐息が温かい。頬を擦りつけるようにしている。ぼくはママの背中を抱いて、背骨をなぞった。ぼくは、男の人の身体(からだ)で、この面がいちばん好きだ。それから、体側(たいそく)のあばら骨をたしかめてゆく。するとぼくの腕に沿って、ママの舌が動く。ぼくはママの乳(ちち)をなぞり、両腋(わき)の繁みをまさぐった。

 ほかの誰よりも薄くて自在な舌が、ぼくの唇を舐めている。ママのはテクニックでないから好きだ。自分が欲しいだけ貪(むさぼ)って、好きなだけ奪い取っていく。その思いきり良さが快い。

 ママの舌が入ってきた。ぼくは、ママの身体(からだ)を抱いて上体を起こした。いま、ぼくらはベッドの上で、向かい合っている。張り詰めて固くなった二人のものが、腹と腹のあいだで揉み合っている。ママの奔流のような舌にかきまわされながら、ぼくの舌も延びていこうとするけれど、到底かなわない。ママは、ぼくの歯を一本一本たしかめるように、表からも裏からも舐めた。

 いちど、口と口を離して見つめあってから、また唇を舐めあう。ママの唇があざやかな色に輝くのが、暗闇の中でもよくわかる。ぼくの唇も、ママの舌にみがかれて光っているだろう。それからまた、舌を中に入れる。こんどは、ママのは円柱のように太くなっている。ぼくの小さな舌が、やさしく迎える。口と口の遊戯を、ぼくは何度でも繰り返したいのに、ママは 30分もしないうちに飽きて、ほかの場所へ移ってしまう。あるいは、ぼくの口に、もっと固いものを入れてくる。

 ぼくは、口と口で1時間でも2時間でもやっていたいのだが、そういうのに付き合ってくれる人は、男にも女にもいないのが残念だ。

f:id:gitonszimmer:20220112142147j:plain

 ぼくらは頂上に達したあと、ようやく身体を離して休憩し、向かい合って足を絡み合わせた。ぼくはママの胸を指でなぞったり撮(つま)んだり、ママは、ぼくの下のほうを弄(もてあそ)んでいる。ぼくは早くも復活しはじめていた。

 正気が戻って来ると、ゆうべの店での失敗が、とても恥ずかしかった。
 「ごめんなさい。」
 と、思わず口から出た。涙が湧いてきた。ぼくは、中学生の時から貧血症で、ときどき立ち眩
(くら)みすることがあるけれど、それで何か病気になったりするわけじゃないから、心配ないと言った。

 ママは、
 「うん、いい余興になった。」とご満悦を示してから、貧血にはリンゴを食べるといいよ。リンゴ以外でも、鉄分は貧血にいいんだ、等々講説を延べ展
(ひろ)げた。でも、ぼくはそれを聞きながら、リンゴをいつも皮ごと齧っていた同級生の白い歯と舌を想っていた。
 ママは、来週、彼氏とタイ旅行に行って来るという。ママの年上の彼氏は、店のオーナーで、毎年この時期に二人して海外旅行をするのだという。口調が男に戻っていた。ぼくのものをぎゅっと掴
(つか)んで、
 「マサヤも早く彼氏を作れよ。」
 と言って、眼を覗き込んできた。それから、ぼくがこのあいだ寝た男のことを尋ねた。ぼくは、「あれから会ってないよ。関心ないし。」と言った。

「ほおお! その顔で自信満々なのね。オトコ渡りする気満々?」
 またオネエ言葉になった。ぼくは、ママの肩に頭を凭
(もた)せた。
「頭ん中がお花畑だから、彼氏って無理。」真剣に言ったつもりなのに、口もとが緩んでしまう、「注文の多い料理店だし。」
 ママの胸に鼻つらを圧
(お)しつける。ママは、ぼくの髪を掴んで引き上げ、鼻を撮(つま)んだ。
 「なにが、ムリぃ…、だよ。かわいい顔しちゃって、このお。チョメ、チョメ。」額
(ひたい)を何度も軽くたたいた。「今からそれだと、じきにお穴(けつ)ガバガバんなるわよお。」

 ぼくは思わずふふと笑って、ママの首と肩に横からしがみついた。さっき掘られた奥が、じんと痛んだ。

【注】「注文の多い料理店」:宮沢賢治作の童話の題名。注文を受けるはずの店が、客に向かってあれこれ“注文する”という意味。

f:id:gitonszimmer:20220116200311j:plain

 ゲイの集まるこの界隈でも、まわりにいるのはみんな、フロイトで言えば、「肛門期」か、成熟したオトナだ。でも、ぼくの性はもっと未成熟だ。そこに固着しているし、未成熟さが心地よい。そうだ。ぼくは、「口唇期」のオトコを探さなくちゃ。
 いつのまにか、ママの腕の中で、また睡眠に落ちていた。

【注】「セックス」のタグをつけているのに、どうしてピストン場面を書かないで飛んじゃうんだ? ピストンでも射精でもいいから書け。と言われそうですが、そこをなぜ飛ばしたかと言えば、この小説のテーマと関係ないからです。本篇は幻想小説です。作者は、現実世界のセックスも恋愛感情も、描く気はないのです。ゲイバーやゲイタウンが舞台に設定されているのも、それらをリアルに描くためではありません。私たちの「居場所」について読者の理解が深まれば、望外の喜びですが、作者の創作意図はそこにはありませんのです。

ameblo.jp

f:id:gitonszimmer:20220116201218j:plain

昧爽の迷宮へ(4)←   →昧爽の迷宮へ(6)

昧爽の迷宮へ(4) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

昧爽の迷宮へ(3)←   →昧爽の迷宮へ(5)

f:id:gitonszimmer:20220115225815j:plain

 

 

 ママの声が、遠くからだんだん近づいてきた。

 「マサヤ、もう上がっていいぞ。ひとりで帰れるか?」
 小声だったがそう言っているのが聞き取れた。ママは、店ではオネエ言葉だが、ぼくらに小声で指示するときは、男の口調に戻る。

 「ちょっと立ち眩みしただけです。なんでもないです。」
 そう言いながら立ち上がったが、また天井が揺らいだ。今度は、ママがぼくの腰を腕で支えた。なよなよしたオネエの外見に似つかない、がっしりした腕だった。

 ママがヒロトに何か耳打ちした。
 「いいか、俺んち行って休んでろ。危なっかしくてしょうがないよ。」
 ママがぼくに言った。声は笑っていた。

 ヒロトが、ママのマンションの部屋までエスコートしてくれた。ヒロトは店へ戻って行った。外から鍵のかかる音がした。

【注】「オネエ」:女のような言葉づかいの男性。本来は、ゲイに限らないが、とくにゲイの「オネエ」は、好んで女言葉を使い、意識してフレキシブルな動作をする。しかし、声は男のままで、ふだんは女装も女化粧もしない。彼らの使う女言葉が「オネエ言葉」。

f:id:gitonszimmer:20220116133109j:plain

 ママの部屋は何度目かだったから、勝手は分かっていた。風呂場でシャワーを浴びて、外に懸けてあるバスタオルを使わせてもらった。持参の歯刷子(はぶらし)で歯をよく磨いて、服は着ないで、そのまま寝室の、ひとつしかないベッドに潜り込んだ。ママの匂いがした。

 2年前、友人に誘われてママの店に行き、ママに初めて会った時、ぼくは、こんな人が実際にいるんだろうかと驚いた。とくべつな雰囲気があった。そういうオーラが、身体(からだ)全体から発散していた。初めての日が、もし混んでいる日だったら、それは分らなかったかもしれない。しかし、その日は、ぼくと友人のほかに客は、いなかった。

 それから何度か来るうち、ほかの目的で新宿に行っても、なんとなくこの界隈に来て、ママの店に寄るようになってしまった。行くと必ずママに声をかけられ、有ること無いこと突っこまれて慌(あわ)てるのが快感になっていった。ママはぼくだけでなく、誰に対してもそうなのだ。ある時、店子のひとりが急に実家に帰ることになり、人手が足りなくなった時に、手伝いを頼まれてカウンターの中に入った。育った家庭環境のせいで台所仕事には慣れていたので、重宝がられた。といっても、この店で出すのはもっぱら酒類、飲料と「乾きもの」に限られていたが。

 ママとの距離が縮まるにつれ、最初に会った時の印象は薄れていったが、しかしそれはときどき呼び起こされた。近づいてゆくと、ぼくの知らない世界に引き込まれてしまうような恐ろしさがあった。といっても、何か、ぼくが怖いと思うようなことをママがしたり、ママの周辺で起こったりするわけではない。にもかかわらず、最初の印象のせいなのだろうか。未知の世界に放り出されて、どうしたらよいか分からなくなる恐怖を想像した。取り越し苦労と言えば、それまでなのだが。

 店は、新宿の他のゲイバーと同様に、本来は夜通し朝までの営業なのだが、最近は、終電前に閉店する日が多くなっていた。疫病がはやっているせいで、営業短縮が要請されているのだ。それでも、頑固に夜通し営業を続けている店も少なくなかった。

【注】「乾きもの」:せんべい、チョコレート、するめ、など、調理しない「おつまみ」。

f:id:gitonszimmer:20220116134740j:plain

 ベッドに入ると睡魔に襲われた。目を開くと、窓ガラスの外が少し白んでいるような気がしたが、また、うとうとしてしまった。

 鍵で玄関を開ける音がして、誰かが入ってきた。寝室に入って来て、暗いままベッドのぼくをじっと見ている気配がした。ぼくは半睡から脱け出られなくて、眼を閉じたままだった。睡覚の向うで風呂場のシャワーの音がした。ふたたび睡眠に落ちようとしていると、毛布が剝ぎとられ、肌が重なってきた。
 「マサヤ。……だいじょうぶ?」
 鼻のすぐ上で、ママの声がした。ぼくは眼を開けて頷
(うなず)いた。
 「ちょっと立ち眩
(くら)みしただけ。」
 唇が一度重なる。
 「気をつけなくちゃだめよ」
 頷く。ぼくのほうから口をつけた。

ameblo.jp

f:id:gitonszimmer:20220116162445j:plain

昧爽の迷宮へ(3)←   →昧爽の迷宮へ(5)

昧爽の迷宮へ(3) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

昧爽の迷宮へ(2)←   →昧爽の迷宮へ(4)

f:id:gitonszimmer:20220115194144j:plain

 Ted Shaw: "populaire danseur de music hall pose nu" en 1917.

 

 店を開(あ)けて、はじめの2時間くらいは、ぼくと、その二人の客だけだった。気の置けない人たち。放っておけばふたりで話し込んでいるから楽だ。歳(とし)はアラフォーあたりに見えた。ゲイカップルは実にいろいろだが、この二人は、ただの友達か、漫才のコンビにしか見えない。話の内容が、そうなのだ。「恋人らしい」あるいは「夫婦のような会話」がない。他人を寄せつけない雰囲気というものが、まるでないのだ。

 片方は税理士、もう片方は司書ということだった。それがほんとうならハイクラスだが、ちっともそれらしくない。服装のせいだろうか。齢(とし)のわりに若づくりのラフな格好をしている。もちろん、この界隈での自称はあてにならない。それでも、話の内容はときどきハイクラスで、ぼくのこともいろいろ聞かれ、卒論の構想など聞かれたので話したら、マニアックな漢詩文の話題に乗ってきた。

f:id:gitonszimmer:20220113124546p:plain

 8時前にママが出勤し、その前後に、遅番の店子2名も揃った。客も急に増えて賑やかになった。この店はママの話術でもっているようなものだ。客は、ママが引き起こすカウンター周りのがやがやを目当てにやってくる。大部分は20代だ。

 洗って乾かしておいた新しいグラスを、ママの指示でカウンターに並べた。スタンド付きで背の高い、すばらしい曲線美。キラキラと輝いている。いままでのグラスが、古ぼけたコップにしか見えない。新しく注(つ)ぎなおして、客と全員で乾杯する。

 店のなかが、すっかり華やかになった。カウンター周りの雑談のテンションが上がっている。自称ハイクラスの二人も、ときどき若い連中のがやがやに加わりながら、店子を相手に自分らの漫才を続けていた。彼らは、もう3時間以上与太話をしているが、いっこうに飽きる気配がない。

 ポンッと音がして、店子で最年少の19歳のヒロトが、シャンパンの開栓に失敗して髪と顔を泡だらけにしていた。カウンター周りが、どっと笑った。ぼくは、調理場から乾いたタオルを持って来て、ヒロトの頭を拭いてやった。

【注】「店子(みせこ)」:ゲイバーの従業員のこと。
【注】「ママ」:ゲイバーで店長(男性)を指す呼称。多くは雇われ店長

f:id:gitonszimmer:20220115194548j:plain

 雫が、鼻からも顎からも垂れている。と、驚いたことに、垂れた雫は、ヒロトの裸かの胸の上を流れ、へそから、その下の繊細な繁みに達していた。

 もちろん、そんなはずはない。ヒロトは、さっきまで、スヌーピーのトレーナーと真新しいデニムを着こんでいた。人のいない調理場のほうを見て瞬(まばた)きしてから眼を戻すと、やはり着衣だった。それにしても、こんな至近距離で見まちがえるだろうか? ぼくは、ほかの人間に不審に思われないように、そのままヒロトの顔とトレーナーの雫を拭(ぬぐ)った。

 窓際にいた三人客の一人が、窓を開けて、下の通りにいる仲間に何か話しかけていた。それを、カウンターの上に置かれたグラスを通して見る位置に来ると、その男のきれいな剝(む)き出しの尻に眼が釘付けになった。ぼくは、自分の眼の位置をずらしてみた。何度見ても、グラスを通すと裸体、通さなければ着衣だった。

f:id:gitonszimmer:20220115195927j:plain

 客の前で、ぼくは不審なしぐさをしていた。ママが、「マサヤ、だいじょうぶか?」と、ぼくに声をかけた。ママの声は冗談めいていたが、それを聞いたとたんに、部屋(へや)全体に上からシャワーがかかったようになった。ぼくは頭から白い泡を浴びたように感じた。泡は、身体(からだ)の表面ではなく、頭脳から、手脚胴体の内部へ降りしきる奔流のようだった。

 天井が揺れたように感じて、ぼくはカウンターの中で倒れ込んでいた。

ameblo.jp

f:id:gitonszimmer:20220115210706j:plain

昧爽の迷宮へ(2)←   →昧爽の迷宮へ(4)